ども、Tenです。

今日はTenがやってる新陰流のお話をちょっと書いてみようかな?

Tenがやってる 新陰流って、戦国時代から伝わって、尾張藩のご流儀として江戸時代を過ごし現代にまで伝わってる古い剣術なんですが、

この新陰流のスゴイところは、

初心者から熟練者まで登っていく階段が、これでもか!ってくらいに事細かに設定されてるってこと。

Tenもいろんな流派を見てきたけど、ここまで上達論として事細かにまとめられている流派って見たこと無いんです。

で、今回は入門して最初に習う初心のカタ(勢法)について。

新陰流に最初に入門したばかりの人は、

江戸時代初期に柳生連也によってまとめられた「取り上げ使い」っていうのを稽古するわけです。

これは初心者のためだけのものって思われてたりするんですが、とっても大事なカタなんですね。

柳生厳長先生から目録をもらっていたという武田正中氏が、その著書「古武道」のなかで、この取り上げ使いについて、

柳生流第四代の宗師連也斎厳包師はここに思を致し、

尾州候第二代瑞竜公光友郷と協力して初心稽古のため、

且つ一通りの熟達者が、いよいよ太刀筋の純正を把握するに使するために、

右の「取り挙げ使い方」を発明して後世に残されたのであります。

つまり、ただ初心者のためだけじゃなくて、

熟達者でも、その自分のカラダの使い方や太刀筋の状態を見極めるために良いって言ってるんですね。

結構、取り上げ使いから次の段階の「下から使い」に進んだら、その前の事を忘れちゃう人っているんだけど、それじゃあダメよ!ってことですよね~。

そして、カタの意味としては、

初心始学中学はこの勢法の習練によって「試合」の規矩軌範を弁得し、
大学以上のものはこの勢法を鍛錬しその鍛錬の間に無尽に変化し-それは恰も一つの完全なる水晶の玉を砕くが如く、
更らに微塵に砕き砕くが故に、当流にては「変化」と謂はずして「砕」と謂います。

この砕きの間に、この砕きの為に真の工夫を重ね、遂に一考案を立てるのであります。

即ち一考案の樹立は千個万個に砕いた玉の統一として、再び固の完新無闕なる一殊玉への帰元であります。

この考案を樹てることが、即ち鍛錬であり把得であり体得であります。

実にこの「工夫」は所謂「試合」であり、考案は真の徹底了得であり、悟道であり、即ち自己発顕の「勢法」であり、乃至「組太刀」「丸太刀」であり、即ち是れ「自己、自性」であります。

故に勢法は初学にとっては「試合」の軌範たる「試合勢法」であり、大学以上には「勢法の試合」-即ち勢法の工夫乃至自由攻●討究であるところの勢法試合」であります。

新陰流では、変化のことを砕きと言ったりしますが、

こんな意味があるんですね~。

とある沖縄の古い空手の先生は、

「型は氷のようなもの、それだけじゃあ使えないけど、溶かせば手も洗えるし、沸かせばお茶も入れれる」

っていうようなことを言ってたけど、

いっしょですよね。
tama
カタ(勢法)っていうのは一つの玉みたいなもので、

それを砕いては、同じ玉に組み立てなおし、

さらに細かく砕いては、同じ玉にまた組み立てなおし、

そういう作業を延々と続けていくことで、

ツルッツルのまん丸い自分だけの玉に磨き上げていくって、そんな感じなんですね~。

これは武術でも整体でも一緒だと思います。

まずは、最初はとにかく正確にカタを覚えて、再現できるようにする。

そこから少しずつ変化させていって、さらにまた元のカタに戻ってきて、

またさらに変化させていって・・・、

そうしていく中で、変幻自在なことが出来るようになっていくんですね。

だから、いつでも戻ってこれる絶対軸になれるカタっていうのはとっても大事なんです。