連也の差料を見に行った話を書いたら、みなさん結構興味があるみたいなので、
そのパンフの表紙の写真を載せて見ました。
(ただ、これって写真取る角度悪いよね~。パンフだからしょうがないのか?)
この写真の脇差が連也が実際に使っていたと言うものです。
ちなみに、今回は拵がメインなので、刀の寸法とか何にも書いてなかったので解らないです。
多分、拵だけで中身は入って無いんでしょうし・・・。
次回は是非この中身を見たいものです。
そういえば岡崎の某女史の実家の蔵から見つかった刀の見物ツアーの話もどっかに飛んでしまったな。やはり時間を無理やり作ってでも行かないと縁は逃げてくね。
でも、岡崎にこんなものが残ってるってのはどういうことなんでしょう?
岡崎は明治期まで武蔵流系統が残ってたのが有名で、天覧試合とかもやってる有名な人もいましたが、新陰流も入ってたんでしょかねぇ。
(じつは、岡崎の武蔵流、もうかれこれ15年くらい探してます。僕が高校時代にチラッと残ってるって聞いたことがあって、それがまだ
どこかにないのかな?と・・。もし心当たりの人はこっそり教えて欲しいです。)
岡崎って、なにげに古い町だから何が残っててもおかしく無い。
そういえば高校時代の同級生に岡崎の甲賀の忍者の子孫ってのがいて、家に伝書も残ってたって言ってたなぁ。
前にいろいろ資料をあさった時には、吉良に兵庫助の書いた書がのこってたりとか、西尾(旧西尾藩)では新陰流から分かれたなんとかいう流派の伝書を見ることが出来たし、もう少しじっくりと探って見ると面白いのかもと思います。