最近、武術の話を書かないので、たまには書こうかな。

ってことで。

その昔、とあるオフ会での出来事。

そこには僕がいた会派とは違う所で新陰流をやっていると言う人が来ていました。

その場にいた他の人が、

「無刀取り見せて。」

っていうので、形通りやるのも芸が無いなと思って、その他所で新陰流をやっていたと言う人を相手に、

「じゃあ、適当に打って下さい」

って言って、取って見せたときのこと。

その時は、相手がちゃんと打って来なかったので、ちょうど中段の付け払いという勢法に似た勝口で、手を取ったまま入身して相手を崩したら(実はこの頃カタとしての無刀取りはまだ習ってなかった(^_^;)、知ってはいたけどね。)、その人、

「新陰流にはそんな形はない!!」

っていって、突然怒り出した事があったんです。

形をやって見せたわけではなくって、その人の打ちに対して対応したらたまたまそうなっただけなのに。

僕は、その時(全く予想外の展開で)唖然としてしまって、どう答えたら良いのか分からずおろおろしてしまいました。

形にある動きからその場に応じて勝手に出た動きで対処したわけなんですが、まるで形通りにやらないと新陰流ではないみたいな言い方をされて非常に憤慨した思い出があります。
(そういう時って、カタ通りの動きをしようとすると、(たとえ説明しても相手にカタ通りの打ちが出来ることって殆ど無いので)失敗する事があるので、いつもそれに対応して適当に対処するのですけどね。)

形というのは、代々の伝承者が様々な工夫を重ねてきた結晶なので、それは流儀を学ぶ上では非常に有用ですし、それがあるから初めてそれらの伝承者の考え方や流儀の教えの深い部分などにも触れることが出来るわけですが、使う時にそんなこと考えてたらただのアホですよね。

尾張柳生に伝わった新陰流を中興した長岡桃嶺という人が、

「カタを死物とすることなかれ、カタは生かして使うべきもの也」
(記憶で書いてるので文面はちょっと違うかも。)

と言うようなことを言ってますが、まさに生かして使うことが大事なんでしょうね。

最近は一緒に太極拳をやってる仲間に協力してもらってカタの分解稽古しかしてないのですが、おかげでカタの中に含まれている教えと言うものが、僅かではありますが見えてきた部分もあります。

この様な地道な作業を行う事も非常に楽しい事です。

何故、このカタをこの段階でやらせるのか?とか、
ああ、だからこのカタをやらせた後にこのカタをやるのか!とか、
このカタを教える前に先のことをやっちゃうとコレが出来ないんだなぁ~、とか、
いろんな発見があります。

今のところの結論としては、無駄なカタは無いので、今残っているその順番でやるのが一番最短なのかもしれないな?という事。

他の武術をちゃんとやってきた人には無駄な事もありますが、それでも漏れをなくすためにはやはり全部やったほうが良いと思います。

実は僕が嫌いなカタがあったのですが、誰でもそう思うらしくて、それはある会派では抜かして教えていたらしいのです。

ですが、そのカタをやっていれば当然出来ているはずの事がその会派の人は出来ていなかったりして、あぁ、やっぱりあんなカタでもはぶいちゃいけないんだなって思ったこともありました。

そういえば、僕が関わったというか、仲良くなった他所で新陰流をやってた人って、みんな元いた会派を辞めちゃうんだよね。

みんなカタの順序は教わってても、その意味を教わってないから。なので、そのような意味を教え出すと、死物のカタを教わる事がつまらなくなるのか、辞めちゃうんですよ。

最近は、そういうのも後味悪いので、あまり口を出さないようにはしてますが・・・。

常に、何故”今”このカタをやっているのか?と言う疑問をもって、分からなければ聞いて自分にフィードバックするという地道な事をしないと、いくらカタが上手くなっても真の上達は無いと思います。

僕は運良く良い先生に恵まれたので、そのような考え方の部分から教わる事が出来たので非常にラッキーでした。